ブログ:外の人

マンガ、アニメ、特撮、SF、プロレス、ロックなどの趣味ジャンルで見聞きしたこと思いついたことを外の人の立場でテキトーに書くブログ

父から聞いた満州の話

ずいぶんとほったらかしにしていたこのブログ。

ほぼ一年半ぶりの投稿です。

タイトル通りの内容です。

 

わたしの両親は1940年満州生まれです。

母はすでに他界しているので話を聞けないけど、父には聞ける。

ということで聞いてみたら、やはり5歳くらいまでのことなのでそんなに覚えてないとのこと。

ただ、父は男兄弟三人の三男なので兄が二人いる。

次男兄はすでに他界、長男兄は認知症なので現状で満州のことを語れる身内は父のみ。

父が言うには大人になってから兄弟で話す(呑む?)時に満州での話をしていたので、記憶が補強されているらしい。

 

わたしの母方祖父Aが大工をしていて、建築の仕事があるからと満洲に渡ったのが始まり。

建築の仕事がうまくいってAは満州で何人も雇用する建築会社を経営していた。

会社の規模が大きくなってきた時に会社の番頭が必要だが「中国人(満洲人というのも正確かどうか不明、以後は鉤括弧なしの中国人と表記する)」に任すつもりがなかったAは妻の姉妹と結婚していた父方祖父Bに白羽の矢を立てる。

そうしてBは満州に渡り建築会社の番頭になる。

そうこうしているうちにA夫婦、B夫婦共に子供が生まれる。

それが後にわたしの両親となる人物である。(両親は従兄弟同士)

 

母からも話を聞いておけば、また違う視点の話もできたかもしれないのは仕方がない。

母の満洲での思い出は「とにかく寒かった」「寒さをしのぐために七輪でニンニクをあぶって食べていた」というのを何度も聞かされたのと、引揚時にDDTをかけられた話が多かった。

 

父が子供の頃は日本人も中国人も仲良く遊んでいたらしい。

それがある日突然中国人グループが父たち兄弟を含むグループを襲おうとしてきたとのこと。

その時は兄たちが機転を利かして窮地を脱したそうだ。

父の記憶が定かではないらしいが「ある日」とはおそらく1945年8月15日だろうとのこと。

満洲玉音放送があったかどうかも覚えていないとのことだが推定すればそうであろうとのこと。

 

時期は定かではないがソ連軍が入ってきた時は性暴力がえげつなかったとのこと。

5歳児の印象に残ってるくらいだからよほどのことだろう。

ソ連軍が満州国内を跋扈するようになった頃に、父と次男兄が留守番をしている時にソ連兵が自宅に押し入ってきたことがあった。

なんでも外からちらりと赤いものが見えたから女性がいるだろうとの決めつけで7歳男児と5歳男児しかいない家に押し入り、女を出せと家中ひっくり返して回ったとのこと。

かなりの恐怖だっただろうと思う。

 

母方祖父Aの建築会社はAが兵隊に取られて解散となった。

解散する際に番頭だった父方祖父Bは中国人も日本人もないと会社の資産を平等に分配した。

満洲鉄道をはさんだ東側の日本人居住区を西側に住んでいる中国人たちが襲撃する計画を建築会社の社長用馬車の御者をやっていた人物が知らせてきて、家族みんなが身一つで御者の身内の家に避難。その後、家財などは御者と仲間が運んでくれたとのこと。

Bが資産を平等に分配してなければ御者たちが助けてくれたかどうか分からない。

ここが大きな分岐点だったのだろう。

 

その後、家族は日本への引揚のために港のある町まで南下していく。

一家を率いていたBは行く先々で仕事をしては移動の資金を作り、また移動ということを繰り返していくうちにいつの間にかソ連軍相手の通訳になっていたとのこと。

いつの間にロシア語を覚えたのかも不明だが、おそらく番頭をしていく中で様々な相手と交渉事を重ねていくうちに身につけたのだろう。

 

そうこうして大連の港から日本へ引揚げたとのことでした。

 

こうした話を覚えている人が生きているうちに話を聞いてアーカイブしておくべきではないかという思いつきが、父に話を聞いたきっかけだった。

父はそんな大層な話ではないと言うが、けっこう大層な話だった。

記憶を残して、ちゃんと話せる人がいるうちにあちこちで話を聞いて個人ブログでもいいから残していったほうが後世のためになるのではないかと思いながら筆を置く。