その後の母方祖父
先日書いたエントリ「父から聞いた満州の話」の母方祖父Aの話。
わたしの母方祖父Aについては従軍時の話は一切知らない。
どのようにして復員したかも知らない。
でも復員して建築の仕事をしていたようである。
そして1948年の福井地震の後に現地入りしてバラックをたくさん建てたというのがわたしが知っているAの一番古いエピソード。
いつ頃か分からないけど経営していた建築会社の集合写真には多くの人が写っていた。
それなりの人数を雇っていたそれなりの規模の会社だったと思われる。
Aは役人が嫌いだったという話は何度も聞かされていた。
印象に残っている話では改装と称して家をすっぽりと囲って見えないようにして、中で解体して新築した家を役人相手に改装と言い張ったとか、ラビットスクーターに雪駄で乗っていたのを警察に指摘されて雪駄がいかに脱げにくい構造になっているかと屁理屈をこねたりといったものがある。
改めて書いてると現代の基準では炎上しそうだな。
これも今だとどうかと物議を醸すかもしれないエピソードだが、電気屋さんの工事を請負った際に電気屋さんが工事費を払う現金がないからと当時まだそれほど普及してなかったテレビで現物支払したために町内で一番最初にテレビを導入した家になったらしい。
役人嫌いの他には宝くじが好きでよく買っていたけど大当たりはしなかったらしい。
下戸だけど現場で働いた人たちを自宅に呼んで宴会するのは好きだったらしいが、母は準備や片付けに駆り出されるのはよくは思ってなかったと語っていた。
そんな母方祖父Aは六輪の大型トラックに巻き込まれてわたしが生まれる前に亡くなった。
一族の中ではわたしが一番性格が似ているらしい。
まぁ役人嫌いだし宝くじは好きだし宴会も好きだしな。