レインボーなノリに対する複雑なあれこれ
レインボーフラッグ、言わずと知れた性の多様性の象徴の旗。
虹は可視光線が分光して様々な色がグラデーションで現れる。
もちろん赤外線や紫外線といった見えない波長にも分光は及んでいる。
さてレインボーフラッグをよく見てみよう。
6色しかない。
一説にはレインボーフラッグが作られ始めた頃にピンク色の布は高いから外して6色にしたと言われている。
また、可視光線を6色に分けて線で区切っている。
目に見えない紫外線や赤外線は表現されていない。
つまりわたしの屁理屈ではレインボーフラッグは目に見える範囲のものだけを取捨選択し、さらに境界線を引いていると解釈できる。
今は7色のバージョンもあるみたいだけど、可視光線に限った上で境界線を引いていることには変わりがない。
ではどうすればいいのか?という疑問があるだろう。
一応の答えとしては赤外線から紫外線までの分光をグラデーションで表現したものとなるだろう。
さらに言えば全波長を表現してほしいとも思う。
でも”世界市民はすべての旗を降ろす”なので旗なんていらなくなる日が来ることを願う。
さて、レインボーフラッグそのものに対するあれこれはここまでとして、タイトル通りレインボーなノリに対する複雑なあれこれを。
わたしは趣味女装で外出し、お声がかかれば人前で漫談することをやっていた時期がある。
そうした漫談の中で話していたのは自分の性のあり方にはゆらぎがあるということ。
時期的には2000年代の頃、漫談のお座敷に出向くと声をかけてくれた主催者さんが「レインボーフラッグは用意できませんでした」みたいなことを言われた事がある。
わたしからレインボーフラッグを掲げてくれとか言ったことは一切ない。
声をかけてくれた人に文句を言うのもあれだけど、良かれと思って言っているのだろうけどわたしはレインボーフラッグというかレインボーフラッグを象徴と捉えるノリに疑問符がついているので、むしろ旗はいらない。
わたしの趣味女装は一目でそれと分かるというのが大きな特徴のひとつ。
これをノンパス女装という。
ノンパス女装で外出するということは「そういう人」が身近なところにいないと思っている人たちの日常の中に入っていくことであり、異物混入以外の何物でもない。
基本的には一人で行動するので、周囲の人達の反応も一人で引き受けるということ。
好奇の目で見られることは覚悟の上、状況によっては暴力にさらされるリスクも負っている。
わたしがノンパス女装での外出を始めたのは1996年頃。
日本で初めての合法的な性別適合手術が行われ、性同一性障害という言葉がヨチヨチ歩きをしだした頃。
当時は同性愛のコミュニティはあったけど、トランスジェンダーという言葉はなにそれおいしいの?みたいな感じだった。
(広義の)トランスジェンダーを自認する人達が同性愛コミュニティの隅っこにお邪魔させてもらってるような感じで自助グループっぽいものが芽生え始めた時期。
2000年前後くらいには同性愛コミュニティを中心に「パレードをやりたい」という声を聴く頻度が高くなっていた。
この頃のコミュニティはリベレーションとしての意識があり、デモの一形態としてのパレードという認識はあったように思う。
というかわたしとつながりのあった人達が活動家が多かっただけかもしれないけど。
話はさらにさかのぼって1990年代。
わたしは新左翼学生運動の影響を受けてフリーターをしながら市民運動に首を突っ込んでいた。
PKO法が可決され自衛隊がカンボジアに派遣されることに抗議するデモに参加していた時のシュプレヒコールに「アジア人民と連帯して戦うぞ!」というのがあった。
その時ふと「連帯してくれるアジア人民ってどこにいるの?」という疑問が頭から離れなくなった。
以後、デモに参加する意義を見いだせなくなってからはデモの隊列には加わらず横歩きをするようになった。
そのような経緯があってデモそのものには意義があるとは思うけど自分から参加しようという気持ちは薄れてしまった。
さて、近年デモに対する否定的な言説が目立つようになってきた。
たいていは自分の意志で行動を起こせない人達が行動を起こした人達を揶揄する感じで言われる。
そしてそうした文脈は権力や権威に対して迎合的な層に幅広く浸透し、自分の意志で行動を起こしている人達の中にもあり方の変わってしまった大衆におもねる傾向が出てきた。
象徴的なのが2022年の東京レインボープライド(TRP)前に中心人物がパレードはデモと一線を画す旨の発言。
TRPだけでなくLGBTQ+なグループのパレードは少数者である参加者たちが存在を消すなとアピールするものなので、その根底において政治性を帯びたデモンストレーションであるというのがわたしの認識。
でも主催者は「ハッピー」を強調するのみで政治性を隠そうとする。
ノンパス女装での一人での外出は平穏な日常に異物が紛れ込むことで政治性を常に帯びている。排除されるリスクも一人で負っている。
そう、一人デモだ。
そうした一人デモをやってきたわたしからすれば、徒党を組まなければ表に出られないなんてちゃんちゃらおかしいのだが、集合にならないと表に出られない事情などを抱えている人達がいることも理解している。
そうした一参加者に対してはお好きにどうぞとしか思わないけど、主催者がパレードから政治色を抜こうとすることは受け入れがたい。
以上、わたしの個人的な複雑な経緯を経て、今の政治性を帯びたものを排除し嘲笑する傾向には強い違和感を覚えるようになったのである。