3月3日は女の子の節句、5月5日は男の子の節句、間を取って4月4日はトランスジェンダーの日ということになっている。
わかりやすい間のとり方であるけど本当に4月4日は3月3日と5月5日の中間の日なのか考えてみよう。
3月3日から3月の残りの日は31−3=28日。
4月は30日。
5月は5日まで5日。
28+30+5=63日。
間を取れば32日目が中間ということになる。
3月3日から32日目は3月35日すなわち4月4日。
めでたく中間の日となりました。
間もなく京都にラーメン二郎がオープンする。関西初出店らしい。
ラーメン二郎というと異様なボリュームや呪文のような注文方法や行列をさばくためのロットという単位で客席を回すことやいろいろとかまびすしいジロリアンたちでおなじみである。
京都に出店するのは叡山電車一乗寺駅のすぐ近く。洛北のラーメン激戦区の一角である。
このエリアは様々な個性のラーメン屋があるので、その時の気分でふらりと入れるのが魅力である。というのはかつてわたしが京都に住んでいた頃の印象なので、最近はどうなっているのかわからない。
それでも激戦区で人気店になり繁華街に支店を出している店も複数あるので、エリア全体として繁盛はしているのだろう。
さて、関西独特というわけではないが、わたしが東京に遊びに行って飲食店で感じたことからすると、関西と東京とでは客と店の関係に多少の違いがあるように思う。
東京では人口が多いせいかマニュアル通りに数をこなしていく感じの対応が多く、客も流れていくパーツのひとつのような感じで、店でくつろぐ感じはあまりない。
クレーム対応も形だけ謝って値引きや返金で対応といった冷めた距離感。
こういう木で鼻をくくったような対応だと関西では「二度と来るか!あほんだら」と言われかねない、言わないまでも思われてしまう。
流石に「お会計」「はいおおきに300万円」みたいなこてこてのやり取りはないにしても多少のボケとツッコミの呼吸くらいはあるし、店も客の財布の紐を緩めてもらうために気持ちよくいてもらおうということは心がけているように思う。
ここで二郎の話に戻るが東京でのやり方と同じようにできると思っているんなら今からでも遅くはないので出店をやめたほうがいい。
おそらくわたしが一番気に入らないのは客をロット単位で回転させるという考え方とそれを守るべきルールとうるさくいう常連たちだろう。
繰り返し言うが洛北のラーメン激戦区の魅力は多様な店の中から選んだ店にふらりと入れることだと思う。行列をロット単位で回す店ではない。
わたしが行列が嫌いなのでこういう意見になっているのかもしれないけど、客を頭数としてしか見ない店より、一期一会でも気持ちよく時間を過ごしてもらおうという店のほうが人気が出るだろうと思う。
余談だが東京では店主がえらそうに客に説教する店の中に人気店があるらしい。
なぜ人気になるのか不思議で仕方がない。
関西でそんなことやったら客にツッコまれるか喧嘩になるかだろうな。
趣味ブログで政治ネタを扱う時は基本的に政治ウォッチャーとしての意見です。
森友学園の籠池理事長が安倍晋三(現職首相)から100万円の寄付をもらったとマスコミ相手に言っている時に背後で「森友学園がんばれー」とずっと叫んでいた人がいる。
この人のメンタリティを考えてみる。
色々ややこしいのでAさんとしよう。
Aさんは「森友学園がんばれー」と叫ぶほどに森友学園の教育方針に賛同しているのだろう。幼児を虐待していることに賛同しているかどうかは不明である。
色々騒がれて申請を取り下げ、小学校の設置ができなくなった状況でも「がんばれー」と叫べる心境とはどういったものなのか?
がんばっても小学校出来ないんだよ。次の機会にとか思っているんなら大甘である。恐らく次回以後は審査が厳しくなるのは明白で、まともに審査したら森友学園の財務状況では小学校の新設はかなわない。
そうしたことはニュースを見ていればよく分かるんだけど、それでも「がんばれー」と声を張り上げるということは、籠池氏のよほどの信奉者なのか、そもそもの政治的指向の親和性から安倍晋三のシンパなんだろう。
だけど、現状では籠池氏は首相からの寄付金を吹聴した結果として国会への証人喚問を控える身である。
これはそれまで参考人招致すら否決しようとしていた自民党が転じて証人喚問へと至った経緯がある。
なぜそうなったのか?恐らく与党サイドは籠池氏の発言をすべて否定して偽証罪で禁固刑に処すところまで描いているだろう。すなわち尻尾切りである。
ここまで不利な状況の籠池氏を擁護する理由はわたしには見当たらないのだが、それでも支持したい人は、恐らく籠池氏と同様に信奉していた安倍晋三によって切り捨てられていく過程を見ることになるだろう。
安倍政権は何度入れ替わろうとその本質はおともだち内閣なので、そもそものおともだちでない人物は不要と見られれば切り捨てられる。
それでもAさんは籠池氏、安倍政権を支持できるのだろうか?
ものすごく余談だが…
籠池氏はいずれ国会議員になりたいという野望があるらしい。
だが様々な資質に問題が発覚している。
メンタルが弱った時によく聞くのがわたしが90年代によく聞いていた3つのバンド、エレファントカシマシ、ボ・ガンボス、ニューエストモデル。
最近はニューエストモデルの30周年記念盤を聞いている。
二枚組の曲の終盤に入っている曲はアルバム「ユニバーサルインベーダー」に入っている曲が多い。
それまでも一緒にライブをやったりメンバーの協力をよくやっていたメスカリンドライブとの協力が今まで以上に強く出ていて、かなりの曲のレコーディングに参加している。
後にこの2つのバンドは一つになってソウルフラワーユニオンとなるのだが、その前の試運転のようなアルバムで、内容も比喩、暗喩が多いニューエストモデルのそれまでの曲以上にメッセージが直接的になってきている。
ソウルフラワーユニオンになってからは音楽的には日本のマイノリティの音楽を取り入れたりして、ロック色が弱くなったのと、メッセージが正面に出すぎたのもあって、距離を置くようになった。
メンバーの入れ替わりもあるけど、今もソウルフラワーユニオンが続いているのは阪神淡路大震災の後に神戸の避難所をちんどん屋をして回ったソウルフラワーモノノケサミットでの活動で結束が強くなったのと、自身の音楽を考え直すきっかけになったのが大きいのだろうとは思う。
しばらくしてレンタル屋にあったソウルフラワーユニオンのアルバムを聞いたら、ポップ感と歌詞の洗練され具合は増していた。
でもわたしはわかりやすいダウンピッキングが好きなのであった。
わたしはtwistedgenderというIDから分かるようにgenderがtwistしている。
平たく言うと多少ではあるが性別違和感があり、一応生得的な性別の男性として日常を生きているが、そこにいくばくかの生きづらさを感じている。
この生きづらさの多くはジェンダーロール違和で「男なら〇〇しろ」とか「男ならこの位できて当たり前」がものすごく嫌。
でも職場は男性ばかりで「男の当たり前」がはびこっている。ほんとうに迷惑だ。
中でも自分の腕力に自信があるタイプは力技で問題を解決してきたせいか、普段の言動から高圧的な人を見かけることが多い。
人間が生きていく上で問題を解決する時にうまく行った方法を成功体験として知恵を付けていく。
で自分の腕力で問題を解決してきた人は知恵を絞ることをせず、力を合わせることもせず、力押しで押し切ろうとする。
この力押しが結局周囲への無配慮や他者との共感を妨げることの原因となっているのではなかろうか?
程度問題な部分もあるんだけど、自分の腕力を疑ったことのない人ほど配慮や共感と言ったことに無頓着なように思う。
厳しい言い方をすれば力で得た多数派の高みに立って安穏としており、自分が弱者の立場に陥ることなど想像もしたことがないと思わせるほどの無神経さを露呈していて、見ていて不愉快なだけでなく一緒に仕事をしていて迷惑にも思う。
思考実験なので結論みたいなものはないんだけど、最近職場で「この人達どうにもなぁ」と思ったことを書き連ねてみたのでした。
魔法つかいプリキュアは普通の中学生朝比奈みらいが魔法界から来た同年代の少女リコと出会うところから始まる。
二人が手をつなぐことによってプリキュアに変身する。
そして第三のプリキュアは魔法学校の図書館の奥深くに封じられていた本から出てきた妖精はーちゃんが成長して変身する。
三人とも魔法が使える。中でもはーちゃんの魔法は魔法界の人間から見てもすごいレベルの魔法だったりする。
リコは魔法界に生まれ育ちながら、魔法に対しては少し苦手意識があり、魔法を使う際に気持ちを構えているように見える。
みらいは魔法学校の補修を受けて魔法が使えるようになったけど、なし魔法界(わたしたちが言う普通の世界)で生まれ育っているので、魔法は基本的に使わない。
そしてはーちゃんは自意識が動き始めててから日が浅いのもあって無邪気に魔法を使う。
人間、魔法界の人間、妖精とそれぞれが違う出自を持つ三人が魔法というキーワードでつながる。このことが物語の大きな根幹をなしている。
だからこそ三人の魔法に対する姿勢の違いは今後のクライマックスへの展開の大きな布石となっている。
もともとひとつだったなし魔法界、魔法界、妖精の里の3つが今更統合されることはないだろうけど、この3つが手を携えることは今後も描かれるだろうし、何よりもそれぞれの世界の代表がプリキュアとなって共闘している。
この意味は物語の終盤への大きな横糸となってつながっている。
年を越したらもう少しで終わる作品だが、クライマックスへの期待は大きい。
わたしが最近良く聞く歌手(バンド含む)はニューエスト・モデル、爆弾ジョニー、吾妻光良とスィンギンバッパーズ、怒髪天、ボ・ガンボス、エレファントカシマシなどなど。
歌の内容はラブソングなどほとんどなく、それぞれのキャラが立った歌詞が多い。
わたしが子供の頃から聞いていたアイドルたちはラブソングが多いけど、まぁアイドルという商売柄そのへんは納得できるかなと思う。
当時のもう少し大人だとちあきなおみや尾崎紀世彦など大人の恋愛を歌っているものが多い。この辺にもあまり抵抗はない。むしろ歌詞がドラマチックで好きなくらいだ。
どうにも苦手なのが恋愛の教祖と言われるような人たち。
そういう人たちの歌詞ってどこか世界が狭いように思えて苦手。
何が苦手なんだろうと考えたら「教祖」たちの曲でわたしの耳に入ってくるのはベタなラブソングばかりでそれ以外の世界に幅が広がってないような印象が強い。
例えばアルバム一枚を聴き込んだらそうした人たちの世界も広がっていくのかもしれないけど、代表される曲があまりにも近視眼的な異性愛モノガミーでがんじがらめに縛られているのが窮屈でしょうがない。
その時点でもう食指が伸びない。
わたしのiPodには松田聖子の4枚組が入っているんだけど、アイドル全盛期の1枚目と最初の結婚前後の二枚目前半くらいまでしか聞いてない。
その先は年齢相応の同世代のロールモデル的な感じでシチュエーションを替えながらのベタなラブソングばかりなだけでなく楽曲的にもイマイチなんで、聞き続けるのが苦行になってくるので聞かない。
山口百恵、キャンディーズ、ピンクレディー、アイドル全盛期の松田聖子、松田聖子と同時期のアイドルたちはシングルを出すごとに違う側面を出そうといろいろな工夫はあったように思う。それが曲を聞く楽しみでもあった。
わたしの感受性が老化しているのかどうかは分からないが、近年の恋愛を中心に歌っている方々の曲はシングルごとにカラーが変わるようなこともなく、一度ウケたら同じような路線で押していく傾向にあるように思う。
よく言えばコンセプチュアルな統一感なのかもしれないが、悪く言うと曲の区別がつかない。
正直に言えば同じような曲しかないのならわざわざアルバムを追い求める必要はない。