光のある方にあまり向かわない
ゴールデンウィークはプライドウィークでもあってLGBTが集まるイベントやパレードが催される。
わたしが趣味女装を始めた1996年頃はまだ日本では東京で小規模なパレードがあったようななかったような。
関西でも「パレードしたい」という声は何度も聞いた。
1988年、大学生だった頃に学生運動に首を突っ込んで様々なテーマで市民運動と連携してデモにも参加した。
強烈な印象だったのは釜ヶ崎の越冬突入集会で三角公園からあいりんセンター前までの何百mかのデモ。
集会に行く前に「安全靴を履いていけ」と言われて履いていったら、デモの最前列で西成署の機動隊が抑える中をデモして進んでいく。最前列は皆機動隊の盾をガンガン蹴って進んでいく。
まぁ色々未体験だったことを経験しました。
そして元号が変わって京都の天皇制に反対する市民運動の呼びかけでいくつかのデモに参加する。
もちろん他のデモにも参加していた。
その中でふと気になるシュプレヒコールがあった。
「アジア人民と連帯して闘うぞ」
その連帯してくれるアジア人民はどこにいるの?
そうした疑問から迷いが生じて、デモの主旨には賛同するけど、自分はデモ隊に入らないで横歩きをするようになった。
そうした自分自身のデモに対する疑問は今も解決しないままだけど、デモをしたいという人たちを否定するつもりもないし、抗議の声を上げる手段としてデモは行われるべきだと思う。
パレードというとまた違うものなのかもしれないが、学生運動や市民運動の経験からすればやはり一種のデモンストレーションだろうと思うので、LGBTのプライド・パレードもわたしの中ではデモの一種として捉えている。
なので「パレードをしたい」という声には「実現したらいいね、でもわたしは参加しないよ」というスタンスでいた。
もうひとつ、わたしがパレードに対して消極的な理由として、わたしの趣味女装の方向性がノンパス、隠さず堂々とというスタンスだということがある。
パレードをしたいという人は数が多く集まることで自分たちの存在をアピールできるという考えの人が多くいる。
おおっぴらにカミングアウトしにくい社会状況(少しはましになっているようには見える)の中で普段はクローゼットの人たちが集まれる場所が一時的にせよできて、声を上げることができるというのは意義があることだと思う。
でもね、隠さないノンパス女装っていうのはね、外出することがそのまま存在をアピールすることなので、要するに「ひとりパレード」なんだよ。
だからいろいろな段取りをしてまで数を集める必要もなく自ら街に飛び出していた者からすれば、最近の大掛かりな仕掛けを見て「ああよかったねたくさん仲間が見つかって、君たちはひとりじゃないんだよ。だけど日常の生活の中での戦いはまずは一人から始まるんだよ」と斜に構えてしまう。
わたし自身がはぐれもの、野良犬的な指向性が強いのでどうしても数が集まり、光が集まっている方向にはなびかない隠花植物のようなひねくれ方をしているのは百も承知です。