ブログ:外の人

マンガ、アニメ、特撮、SF、プロレス、ロックなどの趣味ジャンルで見聞きしたこと思いついたことを外の人の立場でテキトーに書くブログ

組んでみたいオーディオシステム

オーディオ好きだと経済的事情や居住環境を無視して理想のシステムを妄想するのはお約束だろう。

定番ならMcintoshのアンプにJBLのスピーカーの組合せ。

今時サウンドならLuxmanのアンプにB&Wのスピーカー。

わたしもB&Wの象徴のようなちょんまげツィーターがついたスピーカーには憧れがある。

KEFのWirelessもいい感じで鳴るので、部屋にセットしておいてスマホからBluetoothとかも面白い。

 

最近は技術の向上で比較的安いアンプと小型スピーカーでもそこそこの音が出る。

そうした機材のひとつにMarantzのM-CR612というのがある。

小型のボディにCD、ネットワーク、アナログ・デジタルの外部入力などが詰まっている。

この手のオールインワンの中でも多機能な機種。

面白いのがアンプの構成で、リモコンを使った設定でバイワイヤリング、パラレルBTLなどが選べる。

興味があったので店頭で試聴。

わたしが試聴するきっかけになったのはこの記事。

av.watch.impress.co.jp

 

この記事の通り、パラレルBTLでは厚みがあるサウンドでバイワイヤリングだと広いFレンジでみずみずしく鳴る。

この試聴で思いついたのが、バックロードホーンのスピーカーとの組合せ。

試聴した時は小型スピーカーだったけどパラレルBTLならもっと大きいスピーカーのほうが鳴りっぷりがいいんじゃないかとの印象を受けた。

そしてバイワイヤリングの圧倒的なみずみずしさ。

どちらも楽しみたい。

ならば口径の大きいユニットのバックロードホーンで2ウェイ構成にして切替えたらいいんじゃないかと妄想。

わたしがバックロードホーンにこだわるのは明白に長岡鉄男の影響。

比較的安価に手に入るエンクロージャーキットもある。

箱鳴りを押さえればFE-208EΣ/NSのようなダイキャストフレームの重量級ユニットもいけそうだし。

組合せるツィーターはT90Aかな。

このくらいなら予算も手に届きそうな感じだし試してみたい。

その頃にM-CR612か後継機種になってるかは不明だけど、パラレルBTLがあればきっと鳴らせる。

このシステムの難点はアンプのモードを切替えるだけでなく配線も変えないといけない点だな。

ものすごく小さな話だけど言っておいたほうがいいと思うこと

pixiv執行役員によるトランスジェンダーへのセクハラ、SOGIハラパワハラの三段重ねが話題になっているので、わたしのものすごく小さい話を。

 

ちなみにあまりにひどい三段重ねの内容はこちら。

www.bengo4.com

 

このようなひどい事例からすればわたしの経験など屁でもないかもしれないけど、いい機会なので声を上げておく。

 

時は1999年だっと思う。

当時わたしは某所で女装を中心としたオープンなイベントをやっていた。

イベント当日は午後くらいからシャワーを浴びてメイクをして会場に出向き、買い出しに行く。

その日も買い出しに行こうと手伝ってくれる人(ネイティブ男性)と二人で会場を出た辺りで女装が珍しかったのかネイティブ女性に声をかけられた。

応対しているといきなり胸(ウレタンスポンジ)を掴まれた。

わたしが驚いたら女性は何の悪気もない表情と口調で「胸の硬さを確かめたかった」と言い放った。

わたしが怒っていたのを見計らって手伝いの人がその場をとりなしてそそくさと買い出しへ向かった。

事の顛末としてはこれだけ。

問題点はネイティブ女性もトランスジェンダーに対してセクハラを平然と働くケースがあるということ。

さらに言えばトランスジェンダーはネイティブ女性よりも劣っている存在なのでハラスメントを働いても問題ないと判断されたのではないかという疑念が今も渦巻いている。

 

時は経ちトランスジェンダーを取り巻く状況が変わってきているとはいえ、一方でTERFのようなトランスジェンダー排除言説が幅を利かせたりしている。

わたしの女装に対するスタンスがノンパスというのもあって、さらに低く見積もられた可能性はあるにしても、男性>女性>トランスジェンダーというヒエラルキーの構図は変わっていない、もしくは再強化されつつあるように思うことが多い。

 

ノンパス女装というストロングスタイル故に様々ないいこと、悪いことに遭遇してきたけど、この一件だけはいまだにわたしの心の中でぐるぐると渦巻いている。

いい機会なのでここで一回声を上げておくことにした。

だからといってわたしの中のわだかまりが成仏するわけではない。

クィアはいつまでピエロ扱いなのだろうか?

月イチで掲載されるプリキュアの数字ブログのkasumiさんのねとらぼの記事。

記事そのものには大いに同意する。

nlab.itmedia.co.jp

 

でもここだけはひっかかる。

 

" 本作においては、ローズマリーさんというクィア的、ノンバイナリー的なキャラクターにそれらを伝える役割が与えられ、いわゆる説教臭さも少なくコミカルに大切なことを子どもたちに伝えられているのも特徴の一つです。"

 

クィア的なキャラが話せば重たい話や難しめの話題が説教臭さも少なくなりコミカルになるのか?

この部分を書いた時のkasumiさんはおそらくその文章がクィアクィア性に寄って立つ存在感がからかいの対象になっているとの意識はなかったのではなかろうか?

kasumiさんはtwitterでの発言も各方面に配慮しているのがうかがい知れるし、アニメ評論もやっているトランスジェンダーの方とも意見を交わしている方なので、やはり残念に思う。

 

各所に配慮している方ですら「うっかり」クィアをコミカルな存在であると書いてしまうほどにカジュアルにクィアはからかいの対象として広く認知されてしまっている。

この状況に対して否を唱えるのはクィアを自認する人達であるのはもちろんだけど、アライもしくはアライに近い立場の人達もできることなら意識して発信していってほしい。

 

ねとらぼ記事のタイトルにあるように意見が違う人=敵ではないのだから攻撃するつもりなど毛頭ない。

お互いに手をたずさえあえる者同士の手と手がうまくつかめなかっただけのことだと思っている。

手をつなげなかったよ、つなぐためにお互いの手の位置を確認しようねと声を掛け合うことが肝要かと思う。

声掛けよし!

ご安全に!

レインボーなノリに対する複雑なあれこれ

レインボーフラッグ、言わずと知れた性の多様性の象徴の旗。

 

虹は可視光線が分光して様々な色がグラデーションで現れる。

もちろん赤外線や紫外線といった見えない波長にも分光は及んでいる。

 

さてレインボーフラッグをよく見てみよう。

 

6色しかない。

一説にはレインボーフラッグが作られ始めた頃にピンク色の布は高いから外して6色にしたと言われている。

また、可視光線を6色に分けて線で区切っている。

目に見えない紫外線や赤外線は表現されていない。

つまりわたしの屁理屈ではレインボーフラッグは目に見える範囲のものだけを取捨選択し、さらに境界線を引いていると解釈できる。

今は7色のバージョンもあるみたいだけど、可視光線に限った上で境界線を引いていることには変わりがない。

ではどうすればいいのか?という疑問があるだろう。

一応の答えとしては赤外線から紫外線までの分光をグラデーションで表現したものとなるだろう。

さらに言えば全波長を表現してほしいとも思う。

でも”世界市民はすべての旗を降ろす”なので旗なんていらなくなる日が来ることを願う。

www.youtube.com

 

さて、レインボーフラッグそのものに対するあれこれはここまでとして、タイトル通りレインボーなノリに対する複雑なあれこれを。

わたしは趣味女装で外出し、お声がかかれば人前で漫談することをやっていた時期がある。

そうした漫談の中で話していたのは自分の性のあり方にはゆらぎがあるということ。

時期的には2000年代の頃、漫談のお座敷に出向くと声をかけてくれた主催者さんが「レインボーフラッグは用意できませんでした」みたいなことを言われた事がある。

わたしからレインボーフラッグを掲げてくれとか言ったことは一切ない。

声をかけてくれた人に文句を言うのもあれだけど、良かれと思って言っているのだろうけどわたしはレインボーフラッグというかレインボーフラッグを象徴と捉えるノリに疑問符がついているので、むしろ旗はいらない。

 

わたしの趣味女装は一目でそれと分かるというのが大きな特徴のひとつ。

これをノンパス女装という。

ノンパス女装で外出するということは「そういう人」が身近なところにいないと思っている人たちの日常の中に入っていくことであり、異物混入以外の何物でもない。

基本的には一人で行動するので、周囲の人達の反応も一人で引き受けるということ。

好奇の目で見られることは覚悟の上、状況によっては暴力にさらされるリスクも負っている。

 

わたしがノンパス女装での外出を始めたのは1996年頃。

日本で初めての合法的な性別適合手術が行われ、性同一性障害という言葉がヨチヨチ歩きをしだした頃。

当時は同性愛のコミュニティはあったけど、トランスジェンダーという言葉はなにそれおいしいの?みたいな感じだった。

(広義の)トランスジェンダーを自認する人達が同性愛コミュニティの隅っこにお邪魔させてもらってるような感じで自助グループっぽいものが芽生え始めた時期。

2000年前後くらいには同性愛コミュニティを中心に「パレードをやりたい」という声を聴く頻度が高くなっていた。

この頃のコミュニティはリベレーションとしての意識があり、デモの一形態としてのパレードという認識はあったように思う。

というかわたしとつながりのあった人達が活動家が多かっただけかもしれないけど。

 

話はさらにさかのぼって1990年代。

わたしは新左翼学生運動の影響を受けてフリーターをしながら市民運動に首を突っ込んでいた。

PKO法が可決され自衛隊カンボジアに派遣されることに抗議するデモに参加していた時のシュプレヒコールに「アジア人民と連帯して戦うぞ!」というのがあった。

その時ふと「連帯してくれるアジア人民ってどこにいるの?」という疑問が頭から離れなくなった。

以後、デモに参加する意義を見いだせなくなってからはデモの隊列には加わらず横歩きをするようになった。

そのような経緯があってデモそのものには意義があるとは思うけど自分から参加しようという気持ちは薄れてしまった。

 

さて、近年デモに対する否定的な言説が目立つようになってきた。

たいていは自分の意志で行動を起こせない人達が行動を起こした人達を揶揄する感じで言われる。

そしてそうした文脈は権力や権威に対して迎合的な層に幅広く浸透し、自分の意志で行動を起こしている人達の中にもあり方の変わってしまった大衆におもねる傾向が出てきた。

象徴的なのが2022年の東京レインボープライド(TRP)前に中心人物がパレードはデモと一線を画す旨の発言。

TRPだけでなくLGBTQ+なグループのパレードは少数者である参加者たちが存在を消すなとアピールするものなので、その根底において政治性を帯びたデモンストレーションであるというのがわたしの認識。

でも主催者は「ハッピー」を強調するのみで政治性を隠そうとする。

 

ノンパス女装での一人での外出は平穏な日常に異物が紛れ込むことで政治性を常に帯びている。排除されるリスクも一人で負っている。

そう、一人デモだ。

そうした一人デモをやってきたわたしからすれば、徒党を組まなければ表に出られないなんてちゃんちゃらおかしいのだが、集合にならないと表に出られない事情などを抱えている人達がいることも理解している。

そうした一参加者に対してはお好きにどうぞとしか思わないけど、主催者がパレードから政治色を抜こうとすることは受け入れがたい。

 

以上、わたしの個人的な複雑な経緯を経て、今の政治性を帯びたものを排除し嘲笑する傾向には強い違和感を覚えるようになったのである。

カーステレオ→カーモノラル→カーステレオ

このブログ本来の趣味ネタ。

 

今乗ってる車は中古のミライース

中古車を車検費用込みのリースで乗っている。

ついているカーオーディオは純正のCDとラジオと外部入力の機材。

4年間のリース契約が終わればわたしの所有になるけど、今の所有者はリース会社。

多分カーオーディオを付替えますと断りを入れれば文句は言われないだろうけど、制約があればその範囲内でどういう方法が取れるのかと考えるのが楽しいので色々考えてみる。

やりたいことはスマホに入ってる音楽をカーオーディオで再生すること。

型落ち軽自動車の純正オーディオにBluetoothなんて付いてない。

外部入力端子はあるのでiPhoneのLightning端子からステレオミニに変換するケーブルとステレオミニ両オスのケーブルを用意して接続する。

音が出ない。

もしかして変換ケーブルの端子は4ピンだからダメなのかと4ピンケーブルでつなぐがやはり音が出ない。

純正オーディオ側はおそらく3ピンステレオミニなので、4ピン→3ピンに変換する。

音が出ない。

 

今の車が納車される時にカーオーディオのCDがイジェクトしないからと機材を交換している。

もしかして外部入力端子が故障しているのかもと考えた。

そうこうしている頃にオートバックスシガーソケットの電源でBluetoothで受信した音声をFMで飛ばすトランスミッターを見つけたのでお試しで安いものを買ってみた。

これも最初音が出なかったけど、スマホ側のボリュームをMAXにしてカーオーディオのほうもボリュームを上げたらようやく聞こえてきた。

 

まぁ使えるのでとりあえずこれで通勤BGMを再生する。

だけど音がモノラル。安物だからだと思うけどモノラル。

不思議なのはカーオーディオ直上くらいに音像が定位すること。そのへんはカーオーディオの設計でそうなってるんだろうな。

 

音楽は聞けるようになったけど不満があった。

モノラルなのはいいとしても空電音がやたらと鳴るのが気になった。

どうにかしたいけどいい解決方法が見つからなかった。

どうにかしようといろいろいじってる時に偶然で外部入力端子が壊れているのでなくスマホもカーオーディオもボリュームをかなり上げたら聞こえてきた。

端子が壊れていたのではなくただの出力不足だった。

てことで変換プラグ+ステレオミニケーブルでつないで聞くように切り替え。

なんということでしょう。それまでモノラルだった音楽がステレオで再生されるようになった(そりゃそうだ)

 

てことでうちのカーオーディオはステレオ→モノラル→ステレオと変遷したのでした。

その後の母方祖父

先日書いたエントリ「父から聞いた満州の話」の母方祖父Aの話。

twistedgender.hatenablog.com

 

わたしの母方祖父Aについては従軍時の話は一切知らない。

どのようにして復員したかも知らない。

でも復員して建築の仕事をしていたようである。

そして1948年の福井地震の後に現地入りしてバラックをたくさん建てたというのがわたしが知っているAの一番古いエピソード。

いつ頃か分からないけど経営していた建築会社の集合写真には多くの人が写っていた。

それなりの人数を雇っていたそれなりの規模の会社だったと思われる。

 

Aは役人が嫌いだったという話は何度も聞かされていた。

印象に残っている話では改装と称して家をすっぽりと囲って見えないようにして、中で解体して新築した家を役人相手に改装と言い張ったとか、ラビットスクーターに雪駄で乗っていたのを警察に指摘されて雪駄がいかに脱げにくい構造になっているかと屁理屈をこねたりといったものがある。

改めて書いてると現代の基準では炎上しそうだな。

 

これも今だとどうかと物議を醸すかもしれないエピソードだが、電気屋さんの工事を請負った際に電気屋さんが工事費を払う現金がないからと当時まだそれほど普及してなかったテレビで現物支払したために町内で一番最初にテレビを導入した家になったらしい。

 

役人嫌いの他には宝くじが好きでよく買っていたけど大当たりはしなかったらしい。

下戸だけど現場で働いた人たちを自宅に呼んで宴会するのは好きだったらしいが、母は準備や片付けに駆り出されるのはよくは思ってなかったと語っていた。

そんな母方祖父Aは六輪の大型トラックに巻き込まれてわたしが生まれる前に亡くなった。

 

一族の中ではわたしが一番性格が似ているらしい。

まぁ役人嫌いだし宝くじは好きだし宴会も好きだしな。

父から聞いた満州の話

ずいぶんとほったらかしにしていたこのブログ。

ほぼ一年半ぶりの投稿です。

タイトル通りの内容です。

 

わたしの両親は1940年満州生まれです。

母はすでに他界しているので話を聞けないけど、父には聞ける。

ということで聞いてみたら、やはり5歳くらいまでのことなのでそんなに覚えてないとのこと。

ただ、父は男兄弟三人の三男なので兄が二人いる。

次男兄はすでに他界、長男兄は認知症なので現状で満州のことを語れる身内は父のみ。

父が言うには大人になってから兄弟で話す(呑む?)時に満州での話をしていたので、記憶が補強されているらしい。

 

わたしの母方祖父Aが大工をしていて、建築の仕事があるからと満洲に渡ったのが始まり。

建築の仕事がうまくいってAは満州で何人も雇用する建築会社を経営していた。

会社の規模が大きくなってきた時に会社の番頭が必要だが「中国人(満洲人というのも正確かどうか不明、以後は鉤括弧なしの中国人と表記する)」に任すつもりがなかったAは妻の姉妹と結婚していた父方祖父Bに白羽の矢を立てる。

そうしてBは満州に渡り建築会社の番頭になる。

そうこうしているうちにA夫婦、B夫婦共に子供が生まれる。

それが後にわたしの両親となる人物である。(両親は従兄弟同士)

 

母からも話を聞いておけば、また違う視点の話もできたかもしれないのは仕方がない。

母の満洲での思い出は「とにかく寒かった」「寒さをしのぐために七輪でニンニクをあぶって食べていた」というのを何度も聞かされたのと、引揚時にDDTをかけられた話が多かった。

 

父が子供の頃は日本人も中国人も仲良く遊んでいたらしい。

それがある日突然中国人グループが父たち兄弟を含むグループを襲おうとしてきたとのこと。

その時は兄たちが機転を利かして窮地を脱したそうだ。

父の記憶が定かではないらしいが「ある日」とはおそらく1945年8月15日だろうとのこと。

満洲玉音放送があったかどうかも覚えていないとのことだが推定すればそうであろうとのこと。

 

時期は定かではないがソ連軍が入ってきた時は性暴力がえげつなかったとのこと。

5歳児の印象に残ってるくらいだからよほどのことだろう。

ソ連軍が満州国内を跋扈するようになった頃に、父と次男兄が留守番をしている時にソ連兵が自宅に押し入ってきたことがあった。

なんでも外からちらりと赤いものが見えたから女性がいるだろうとの決めつけで7歳男児と5歳男児しかいない家に押し入り、女を出せと家中ひっくり返して回ったとのこと。

かなりの恐怖だっただろうと思う。

 

母方祖父Aの建築会社はAが兵隊に取られて解散となった。

解散する際に番頭だった父方祖父Bは中国人も日本人もないと会社の資産を平等に分配した。

満洲鉄道をはさんだ東側の日本人居住区を西側に住んでいる中国人たちが襲撃する計画を建築会社の社長用馬車の御者をやっていた人物が知らせてきて、家族みんなが身一つで御者の身内の家に避難。その後、家財などは御者と仲間が運んでくれたとのこと。

Bが資産を平等に分配してなければ御者たちが助けてくれたかどうか分からない。

ここが大きな分岐点だったのだろう。

 

その後、家族は日本への引揚のために港のある町まで南下していく。

一家を率いていたBは行く先々で仕事をしては移動の資金を作り、また移動ということを繰り返していくうちにいつの間にかソ連軍相手の通訳になっていたとのこと。

いつの間にロシア語を覚えたのかも不明だが、おそらく番頭をしていく中で様々な相手と交渉事を重ねていくうちに身につけたのだろう。

 

そうこうして大連の港から日本へ引揚げたとのことでした。

 

こうした話を覚えている人が生きているうちに話を聞いてアーカイブしておくべきではないかという思いつきが、父に話を聞いたきっかけだった。

父はそんな大層な話ではないと言うが、けっこう大層な話だった。

記憶を残して、ちゃんと話せる人がいるうちにあちこちで話を聞いて個人ブログでもいいから残していったほうが後世のためになるのではないかと思いながら筆を置く。